テラヘルツ(THz =1012 Hz)領域の分光では,赤外域と同様に物質固有の振動スペクトルが観測される.ただし,THz光のエネルギーは赤外域に比べて10~100倍ほど低いため,赤外スペクトルで観測される分子官能基による振動モードよりも,大きな質量の弱い相互作用による振動,すなわち分子間相互作用による分子集団の振動モードが観測される.このような振動モードでは,結晶構造や高次構造の違いが振動周波数の違いとして観測されやすいため,THzスペクトルは分子高次構造を探るプローブであると言える.分子の高次構造はポリマーやゴム,ゲル,タンパク質など高分子の物性や機能を理解する上で非常に重要であり,材料化学やバイオテクノロジーなど高分子を対象とする科学技術にとって必要不可欠な情報であり,THz分光という新しい手法によって,これまでにない情報が得られる可能性がある.
本研究では,ポリヒドロキシ酪酸(PHB )やナイロンなどのポリマー材料のTHz吸収スペクトルを測定し,低周波数振動モードにポリマーの高次構造がどのように反映されているのか明らかにした.例として図1にPHBの等温結晶化をTHz分光で観測した結果を示す.アモルファス状態のPHBはTHzスペクトルに吸収ピークを示さないが,時間が経過し結晶化が進むと2.4THzと2.9THzの吸収ピークが成長していることがわかる.(図1 (a)) これらの吸収強度からPHBの結晶化度を算出し,その時間変化から各温度の結晶成長速度を求めたところ,DSCによって求められた結晶化速度に近い値が得られた.(図1 (c)) 一方,ナイロンを対象とした分光研究では,温度変化に伴うナイロン結晶の構造相転移(Brill転移)がTHzスペクトル構造の変化として観測された.さらに詳細なスペクトル解析からは,ナイロン結晶を構成するNH…O=C水素結合や,ナイロンに吸着した水などがTHzスペクトル上で明確に観測されるなど,THz分光からポリマー高次構造や素結合を観測可能であることが示された.
一方,THz光のエネルギーが高次構造の振動や分子間水素結合の振動に相当する事から,高強度THz光の照射による,高分子高次構造および周辺の水素結合の変化が期待される.高次構造は高分子の機能や物性の起源であるため,その変化をTHz光によって誘起できれば、高分子の機能や物性を変える新しい手段が生まれると考えられる.本研究では,大阪大学産業科学研究所のTHz自由電子レーザーを用いて,THz照射による高分子構造の変化を観測した.実験ではPHBのクロロホルム溶液に,自由電子レーザーの出力光である周波数3~8THzのパルス光を照射しながら溶媒を蒸発させ,ポリマー膜を作製した.得られたポリマー膜の構造は,レーザー共焦点顕微鏡と赤外分光によって観測された.顕微鏡画像によると,THz光を照射していないサンプルではほとんど大きな結晶構造が見られなかったのに対し,THz光を照射した試料では数μmサイズの非常に大きな結晶が成長していた.さらに赤外吸収スペクトルから結晶化度を求めたところ,THz光の照射により,約20%の結晶化度の向上がみられた.(図2)
このような結晶構造の変化は,単純に試料の温度を上げるだけでは起こらないため,パルスTHz光によって誘起された過渡的な現象に起因すると考えられる.一つの可能性として,瞬間的な分子間運動の励起によって衝撃波が発生し,高分子の結晶化が誘起されているとも考えられるが,メカニズムはまだ明らかになっていない.似たような先行研究として,フェムト秒レーザー照射によるタンパク質結晶化の研究がある.それらの研究ではGW/cm2クラスのピーク強度のレーザーパルスが溶液に照射されるが,照射した光の波長の吸収が無いため,非共鳴の相互作用であると考えられる.一方で,本研究で照射されたTHz光は数十MW/cm2と弱いが,分子間振動に直接作用していると考えられ,効率的に分子間の運動状態を励起したのではないかと推測される.
このように,THz光を使って高分子を見る,あるいは操作するといった研究は,まだ始まったばかりであるが,高分子の性質を支配している分子間構造やそのダイナミクスに迫る新しい研究手段として期待される.
参考文献
[1] H. Hoshina et al. IEEE Transactions on Terahertz Science and Technology, 3(3), 248 (2013)[2] H. Hoshina et al. Scientific Reports 6, 27180 (2016)